日本におけるファイリングシステムの先駆的導入は1900年代初頭において既に民間企業の手で行なわれていたと言われ、また関東大震災を契機として民間や官公庁にも普及が進んだと言われている。
第二次大戦後の昭和50年代初めに、当時人事院に在職していた三沢仁氏(後に日本におけるファイリングシステム研究の第一人者)が米占領軍から指導を受けて「ファイリングシステム」(日本事務能率協会)を上梓し、これが日本におけるファイリングシステムの研究と普及の基礎となったことは良く知られているところである。
余談であるが、この時期くろがね工作所とイトーキ両社に対して、国からファイリング用什器や用具の開発研究の要請が有り、そのことが両社のファイリングシステムメーカーとしての出発点となったそうである。(伝聞につき確証なし)
戦後の官公庁におけるファイリングシステムの導入は、終戦直後の1948年に内閣次官会議で、官公庁にファイリングシステムの採用を勧める申し合わせが行なわれたことを嚆矢とするが、終戦直後の混乱期にあっては、この申し合わせをもって普及が飛躍的に進むという状態ではなかったようである。(この項「ファイリング&情報共有なるほどガイド」くろがねファイリング研究所著)による)
政府による上述の「申し合わせ」に類するファイリングシステム普及策は、昭和の大合併に先立ってあるいはその過程でも、上記@の状況を踏まえて、何らかの形で講じられていたものと推測される。
また三沢氏による研究の進捗と「ファイリングシステム」等参考図書の公刊、くろがね工作所、イトーキによるファイリング専用キャビネットや個別フォルダー等の用具の市販など、ファイリングシステム普及の為の基礎環境が整ったことも、ファイリングシステム導入を検討する市町村にとって大きな後押しとなったことであろう。
このような要因により全国の多くの市町村に於いてファイリングシステムの構築がなされたものと推定されるが、資料2に見るように、昭和44年の統計から13年後の昭和57年には、驚くべきことに924団体の導入団体の内、6割強の団体で、システムの崩壊が生じている。
ファイリングシステムの崩壊は団体の規模が小さければ小さいほどその崩壊率が高くなる傾向が顕著で、市区部では36%に留まったのに対し、町村では73%の団体で崩壊が生じている。
この統計値は、ファイリングシステムの構築において、導入はしたもののその後の維持管理が如何に難しいかを如実に示すものであるが、しかしその原因と対策を考えるには、大雑把に「維持管理がうまくいかなかった」から・・と理由付けるだけでは足りない。
このような崩壊を引き起こした問題点を、より具体的に次節で分析してみよう。 |