以上見てきた米国社会のあり方に較べ、日本はほぼ単一の民族であり、また同じ文化を共有する人達によって社会が成立し、また組織も構成されている。
最近でこそ地域社会に住む外国人の姿を見かけることが珍しくなくなり、また同じ職場に外国人が居る会社も増えてきているというものの、米国のような人種と民族の坩堝で、生のままでは組織内のコンセンサスをとるのが困難といった社会や組織ではありえない。
労働流動性の面から見ても、今日では随分と転職する者が多くなったとは言うものの、良くも悪くも欧米の水準には遠く、特に昭和30年代、40年代の昭和の大合併当時にあっては、終身雇用が当たり前とされた社会であった。
このような日本的社会にあっては、同じ日本人としての言語、文化を共有した者同士が、また国民一般の教育水準の高さを背景に、同程度の教育レベルの者同士が、団塊となって同じ組織内で長期間過す事となる。
もちろん意志の疎通は容易で、いわゆる「阿吽の呼吸」で済ますことも可能であろう。
このような性格の組織においては、文書の取り扱いについての統一的なルールやマニュアルは、最低限のものが有れば良く、よく言えば融通無碍に対処しても事務の遂行に事なきを得ていたのであった。
またこの時代には、「○○の神様」と呼ばれる熟達の職員がどの組織のどの課、係にも居て、その人に聞けばたちどころに文書の保管場所や時には内容まで教えてもらえたと、役場の職員の方から聞くことが多い。
このような日本的状況では、ファイリングシステムが社会と組織活動に必須であることを前提に組み立てられている米国における法整備、教育、資格制度の類は、必要とされない。
またコストを掛けて文書管理の人材を社会的に養成し、養成された専門要員を組織内に雇用する必然性もまた存在しなかったということであろう。 |