昭和44年に924あったファイリングシステム導入団体が、昭和57年には346に激減(資料2)している原因と考えられる点を前項で挙げたのだが、ではこの期間中のどこかでシステムの崩壊をみた団体において、文書事務は滞りなく進めることができたのであろうか?あるいは、2−1(1)、(2)の導入に至った要因が解消したのだろうか?
以下は推測の域を出ないものであるが、これら団体においては「ほぼ」事務遂行において事なきを得ていたのではないか。
合併直後に一時的とは言えファイリングシステムが適用され、文書管理の形だけは整った状態が、維持管理にかかる人的コストの不足が原因となり、合併の混乱期を経て徐々に当初のシステムが崩壊する中でも、既に述べた日本的コンセンサスがそれなりに有効に働くことで、組織活動そのものに支障をきたすような根本的な不便さや不足感を持たずに過せたのではなかったろうか?
もちろん文書管理の主管課職員や一般職員の中にも、ファイリングシステムの崩壊に危機感を抱き改善を提案した者も有ったに違いないが、その不備によって組織活動を阻害する大きな事故でも起こらない限り、意見具申に終ってしまっていたのではないか。
「過去の文書を探し出すのに時間がかかる。この所要時間の総計は組織総体として大きな人件費の無駄となる。」・・と正論を述べても、それで予算が通る時代ではなかったのであろう。
このような状況が徐々にではあっても変わってくるのはバブル崩壊後の時代以降であった。
地方公共団体に於いては、慢性化する財政赤字の中で、より少ない職員によって、しかし逆に増加する業務の遂行が求められ始め、また公文書を保管、保存する目的において、従来は行政事務のための保存の傾向が強かったのに対し、汎く国民、住民の財産としての保存、求められれば可能な限り迅速に公開することを前提とした保存の考え方が一般的となる時代になって、ようやく上の正論が受け入れられる素地が出来上がってくるのである。 |